筑波大学教授に聞く「進路」の話〜進路選択とキャリア形成に必要な学びとは〜

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取材・文=Lyra(りら)(S高1期生・ネットコース)かめた(N高6期生・ネットコース)

みなさんは「進路」「キャリア」という言葉を聞いて、どのような感情を抱きますか?

「きちんと考えられているから大丈夫!」と思う人もいる一方、「そろそろ考えとかないとな…」「でも何から始めればいいかわからない…」と思う人は少なくないはずです。

今回私たちは、「進路選択とキャリア形成に必要な学び」について、筑波大学人間系教育学域の藤田晃之(ふじたてるゆき)先生にインタビューしてきました。中高大と付きまとう、進路、キャリアへの悩みや不安を払拭するためには、どのような「学び」が必要なのでしょうか?

キャリア教育を専門とされている藤田先生へのインタビューだからこそ知れる、進路やキャリアへの解像度がぐんと上がるようなとても貴重なお話がたくさん詰まっています。先生のたくましく明晰な知識の数々を、ぜひ最後までご覧ください。

話をしてくれた人

筑波大学人間系教育学域 藤田晃之先生
目次

キャリア形成に必要な学びとは?

Lyra(りら)

高校生のキャリア形成に必要な要素について教えてください。

藤田先生

高校生のキャリア形成に重要になってくる要素は三つあると思います。
まず一つは多様な人とコミュニケーションを取ることです。日本は、少子高齢化で労働力が不足していて、永住権を持つ外国の労働者も増えつつあります。そんな状況ですから、みなさんたち日本の高校生とは違う価値観や文化を持った他者とコミュニケーションを取りながら、協働していくことがとても重要になってきます。ですから、高校生の間にしていただきたいのは、様々な立場の人たちとコミュニケーションをとりながら、プロジェクトや学校行事などを作っていく経験、つまり様々な意見の衝突を飲み込み、乗り越えながら何かを作っていく経験です。

Lyra(りら)

様々な人がいる現代社会では、様々な立場の人と意見を交わし合う経験をすることがとても重要なんですね。

藤田先生は終始、私たちの質問に優しく、そして丁寧に向き合ってくださいました。
藤田先生

そして2つ目は、学びと社会の接点を見出すことです。
現代は、society5.0や第四次産業革命と言われる社会ですが、そんな社会の中心になっているのは「日進月歩の知」だと思うんです。つまり、知がどんどん進歩していって、その進歩した知が社会の基盤になっていくような世界。
そんな世界では、5年前、10年前の常識が通用しないなんてことはザラにあって、なんならパラダイム自体が違うなんてこともあり得ます。

藤田先生

そのような社会の変容に対応していくためには、学び続けることと新たなものに対して自分の心を開き続けることが重要になります。
そのためにみなさんにしていただきたいことは、学校での学びと社会の接点を探すことです。「これは社会とどのように繋がっていく学びなのかな?」ということを考えながら、学校での学びと社会の接点を探すことは、今後とても重要になってくると思います。

Lyra(りら)

「変化し続ける社会に対応するためには、自分自身も変化していかなければならない。そのためには、学び続け、新しいものを取り込み、自分自身が常に変化していく必要がある。」ということなのですね。
変化し続ける社会に対応していくために学んでいく姿勢の鍵となるのが「学校での学びと社会の接点を探すこと」になるのではないでしょうか。

藤田先生

3つ目は、「キャリアに対するビジョンを持つこと」です。
1つ目の回答でもお話ししたように、グローバルモビリティが盛んになってきて、日本人以外の人間が日本社会にいるのが当たり前になってきています。そのような社会では、雇用のあり方も変わってきます。

藤田先生

これまでの時代では、終身雇用と呼ばれる安定した雇用の形が一般的だったのですが、今はその雇用のあり方が揺らいでいます。
企業側は、人員整理で従業員の首を切る可能性もあるし、従業員側としては、ずっと1つの企業に勤め上げるのではなく、自分の興味関心や必要性に応じて職を変えていくことが必要になっていく。
20年前30年前までは、そのようなことは起こり得なかったので「いい企業に入れば一生安泰なんだから先のことなんて見通す必要はない」という考え方が一般的でした。
今もなおその風潮は残ってはいるのですが、そうではない、いわゆる企業に自分を預けっぱなしではないキャリアが一般的になりつつあります。
望む望まないに関わらず、この考え方は今後必ず必要になってくると思います。

これからの時代におけるキャリアのあり方について説明してくださる先生
藤田先生

そんな社会の中で生きる中高生に必要になってくるのは、社会の大きな変化を見据えながら、自分のキャリアを自分で作っていくというビジョンを持つこと。
そのためには、「自分は何に関心があるのかな?」「自分は社会で何ができるかな?」というのを考えておく必要があります。
しかし、考えたからといってすぐ答えが出るようなものではありませんから、そのように考える「習慣」が大事になってきます。

Lyra(りら)

目まぐるしく変化する昨今の社会では、一つの企業にこだわったキャリアが通用しなくなってくるため、社会と自分の位置関係を常に明確にしておく必要があるのですね。
そのように、社会と自分の位置関係を明確にしておくことこそ「キャリアにおけるビジョンを持つこと」
社会の変化を見つめ続けながら「自分は社会で何ができるのか、何に関心があるのか」を常に考え続けたいと思いました。

将来を描くために必要な、直接体験と知のベース

Lyra(りら)

我々中高生が社会との接点を見つけていくための取り組みとして、サードプレイスにおける社会課題について知るワークショップや実際に働いている人のお話を聞くトークセッションなどがあり、中高生が社会との接点を持つ機会は増えつつあると思います。
そのような中で、中高生が社会との接点を見つけやすくするためのポイントは、どのようなところにあるとお考えでしょうか。

藤田先生

今おっしゃったような社会について知る「直接体験」は、数が多ければ多いほどいいと思っています。例えば総合的な探究の時間でのプロジェクト学習、インターンシップ、ボランティア活動、具体的には子ども食堂への参加なども直接体験に該当しますよね。
そういった様々な体験を通して社会との接点を見いだしていくこともとても重要だと思います。

藤田先生

ただ、直接体験と同じくらい重要になってくるのが「知のベース」だと思います。

社会との接点は「体験」だけでは見出せず、社会と出会う体験と社会への知識の両方が必要だと教えてくださる先生
藤田先生

知のベースを説明するために、環境保全の話で一つ例を挙げると、レジ袋を買わずエコバックを使うことは本当に環境にいいことなのか? ということです。
有料のレジ袋を買わないという点ではとても環境に優しいかもしれません。しかし、本当に環境にいい活動をしたいのであれば、エコバックの製造過程における環境負荷とエコバックを買って使うことを天びんをかけた時に、どちらの方が環境負荷が小さいのかというのを考えることが必要になってきます。このために必要なのが知のベースです。

藤田先生

エコバックを使っているとなぜかいい気分になりますけども、エコバックの多くは木綿や化学繊維でできています。
化学繊維の場合石油などを使って作られていて、木綿も多くの場合発展途上国で作られる安い木綿を使っています。SDGsのうち「目標13」として挙げられる気候変動問題を視野に収めれば、石油を使ってエコバックを作ることも環境に悪いだろうとすぐに推察することができますね。じゃあ木綿なら問題がないのかというとそうではなく、やはりSDGsの観点から、発展途上国から輸入される際にフェアトレードなのか、児童労働は含んでいないかを考える必要があります。

藤田先生

そうやって、エコバックを使うことが「免罪符」になってしまわないかを考える必要があります。エコバックを使っているからいいやと消費しきれないような量の食材を買って、結局食べきれなくて捨ててしまったのでは意味がなく、地球への負荷が高いわけです。
エコバックの背景にある社会をよく見つめた上で、エコバックを使うか否かを自分で選択する必要があります。

「エコバックを使うことが『免罪符』になっているかもしれない。」という言葉にはとても考えさせられました。
藤田先生

こうやって大きな眼差しを持って社会について知るためには、直接体験だけだとどうしても足りないわけですね。そのような経験だけで社会を捉えることは非常に危ういです。ですから知のベースを築くことは社会を知る上で非常に重要になってきます。
中高生という、学びを中核的にできる時期にちゃんと学んで、経験と知識両方で社会を捉えられるようになることが、本当の「社会との接点を見出すこと」だと思います。

かめた

直接体験による経験が大切で、さらに広い知のベースがあれば、他の物事との関わりや背景を把握することができ、社会との接点をより見つけやすくなるということでしょうか。

藤田先生

はい。社会課題の解決は、これから皆さんが人生を歩んでいく上で絶対に必要だと思うんですね。人間の存在は地球にとっては負荷が高く、人間のような行動をしている生き物は他にないので。
我々が社会課題を考えたり、解決に向けて行動するのは当然のこと。ただ、それが「何かいいことやってるな。」みたいな感覚で終わってしまうのはもったいないです。そこはやはり、幅広い学びを活かして科学的に捉えることが必要ですね。好奇心旺盛な今のうちだからこそ、学びを広げておくことが必要だと思います。

Lyra(りら)

経験と知識の両方で社会を捉えることが重要だとお話しいただきました。
では、その捉えた社会を自分ごととして捉え直し、自分の将来と結びつけるために必要なことについて伺いたいです。

藤田先生

僕の好きな言葉に、「セレンディピティ」という言葉があります。セレンディピティというのは、ふとした偶然をきっかけに、予想外の発見をするという意味の言葉です。
そういう偶然は、日々の出会いに紛れ込んでいます。例えば、課外活動や普段の授業、本や教科書、映画やテレビなんかもそうですよね。日々出会いがいっぱいあるじゃないですか。
そういう出会いの中で、自分がはっとさせられる経験とか「これすごいなあ」と思う経験がみなさんあると思うんですね。その時にああすごいなと思うだけにとどまらずに、「なんで今、僕はこれにはっとしたんだろう。なんでこれはすごいと思ったんだろう。」と自分がはっとした理由を自分で問い直して言葉にしてみると、自分の興味関心の根幹が見えてきます。もし、はっとした瞬間の種類や領域が全く異なるものでも、それらには共通するものがきっとあります。そういう風に、自分の根幹を探す作業というのは、自分の興味関心や、自分の強みを発見することに強く繋がります。

Lyra(りら)

日々の出会いの中ではっとした瞬間に出会ったら、そのはっとした感覚に惑わされずに一旦立ち止まって「なんではっとしたんだろう?」と問い直していくことが重要なんですね。

かめた

自分の興味に反応してはっとなる瞬間というのはすごくイメージしやすかったんですが、自分の強みに反応して、自分がはっとなる瞬間というのがあまりイメージできませんでした。強みにはっとなる瞬間というのはどのようなものであるかを教えていただきたいです。

藤田先生

すごく単純で、はっとなる瞬間というのは、大体「そうなったらいいな。こんなことを自分が実現できたらいいな。」っていう思いに近いことが多いじゃないですか。そこには自分の憧れが関わっている訳ですが、そこに憧れるということは、関心を持ってるってことですよね。ということは、自分の中に、そこに近づきたいと思う根っこがある。強みって、実は生まれつき持ってる強みもありますが、大体は育てていくものなんです。はっとした瞬間の中に自分の将来の姿を重ねることができるから、そこに向かって努力をしていけばいいと思います。
もちろん、DNAに依存する領域もありますが、大抵の強みは努力して作っていくものですから、はっとした瞬間の中に自分の強みのゴールが見えてくるはずです。

かめた

そのはっとする瞬間というのは、自分が持っている能力の中でゴールを見据えやすい、目立っているものという認識で合っていますか。

藤田先生

そうです。自分がそれを活用して生きていきたいなと思うから、はっとするわけですよね。
自分がどの伸び代を伸ばしたいかの発見は、はっとする瞬間の中にあるはずです。

藤田先生

今、教育学の分野の中でコンピテンシーベースドエデュケーション(competency based education) というものがあって、これはコンピテンシーを志向する教育のことです。英単語のコンピテンシー(competency)やアビリティ(ability)やケイパビリティ(capability)は、全て日本語では能力と訳されます。その中でなぜコンピテンシーなのかというと、コンピテンシーは訓練や努力によって伸ばすことができるという要素を含んでいるからです。そういうものを中心として構想されているので、生まれつきの体の強さや知性といった強みではなくて、努力したら伸びる、伸ばそうと思えるような、資質能力というものを大切にしていこうというのが世界的潮流なんですね。脳科学の観点から見ても、発揮される才能というのは、DNAレベルで規定されるところは確かにあるけれども、後天的に獲得したものの方がはるかに大きいということがわかっています。

はっとする瞬間と強みの関係について、構造立ててわかりやすく話してくださった
藤田先生

そうやって見つけていった自分の興味関心や強みは、「社会の中でどう生かされるかな。」「どこの分野だったらこの興味関心や強みが一番発揮できるかな。」と考えることが、社会と自分を結びつける上で重要になってきます。

藤田先生

例えば、社会課題を解決できて社会貢献が大いにできる企業にいるけれども、業務内容が自分にとってすごい苦痛だったら嫌じゃないですか。極端に言うと細かい作業を継続するのはとても苦手なんだけども、任されてしまって10年間ずっと表計算ソフトを叩いているとか。自分の強みや特性が生かされないのは中々に悲惨です。それは自分と社会を結びつけられているとは言えません。
ですから、自分の強みや興味関心が発揮できる社会領域を探していきたいですよね。
そのためには、大きな眼差しを持って知識と経験両方で社会を捉えることと同時に、自分の興味関心や強みの根幹を知り、それはどの社会領域で発揮されるのかを考える必要があります。

Lyra(りら)

私たちが進路選択をするときには、「社会を知り、自分を知ること」が重要になると考えています。
自分を知るためには、日々の授業や課外活動での出会いで、「これすごい」と思ったことを受け流さず、「何ですごいと思った?」とその事象を解体・抽象化していくことが重要で、加えて社会に対する「知のベース」があれば、どの社会領域でどのような進路を歩めばいいのかが自ずと見えてくるのではないかと思いました。

大学受験合格が教育のゴール?大学受験と就職の関係

Lyra(りら)

先ほどのエコバックのお話を聞いて、エコバックを使うことは本来手段であるはずなのに、目的になってしまっているような状態は、知のベースが足りないから起こってしまっているのではないかなと思いました。

Lyra(りら)

同じように、手段と目的の逆転は、教育現場にも当てはまるのではないかと思いました。
その最たる例が大学受験かなと思います。
周りを見渡してみると「大学受験をし、合格すること」を目的にしている人が多いような気がしていて。ですが本来は大学で学びたいことや成し遂げたいことのための手段として大学受験があるはずですよね。
先生は、その点についてどのようにお考えでしょうか?

藤田先生

私からも質問をしたいのですが「大学受験に合格して大学に入ることは、本来手段のはずなのに目的化してしまっている」ことの背景を考えたことはありますか?

Lyra(りら)

すごく深く考えたことがないので、予測にはなってしまうんですけれども、高度経済成長期からの安定した雇用においては、小学校から大学まで一貫されたレールが敷かれていて、そのレールに乗っておけば将来安泰であるから、大学に入ればOKだろうという認識が定着し続けているからなのかなと考えています。

藤田先生

いい線行ってると思います。今、大学に入れば安泰っていう言葉をお使いになりましたが、なんでいい大学に入れば安泰だと思えちゃうんでしょう。

かめた

昔の社会では、いい企業つまり有名な大企業に入ることで、企業に身を任せておけば安心だという風潮が世の中に広がっており、そのような企業に就職するのは、主に偏差値が高い大学群に所属している学生である。そのため、偏差値の高い大学に入れば、そのような企業に入れる可能性が高い。だからこそ、いい大学に入れば、いい企業に入れば、いい人生が約束されるみたいな風潮が昔に広がっていて、それが今もなお残っているからこそ、そのような状況が生まれているのかなと考えました。

先生と意見を交わす私たち
藤田先生

なるほど。逆に、なぜ企業側は偏差値の高い有名大学から若者を取りたがるのでしょう。

藤田先生

例えば、かめたさんが銀行経営をしているとしましょう。
その場合、なぜかめたさんは何十年にも渡って、東大や京大の人を雇うのでしょうか。東大京大のような有名大学出身ではなくとも、世界経済論や金融論といった銀行にとって近しい学問をしっかり学んできた学生の方が貢献してくれるのではないかと考えず、大学という物差しだけを雇用の基準としている。
なぜ、東大だったら、どんな学部であっても銀行に行けちゃうのでしょう。大学名だけではなく、何を勉強してきたかの方が重要な感じがするのですが、実際に日本の企業がそうしてこなかったのはなんでなのでしょう。

かめた

今までの話を踏まえると、有名大学に入るための難易度の高い入学試験に合格するには幅広い、かつ深い教科の知識が必要で、それは長い期間を経て積み重ねていくものであるからこそ、評価の基準になっているのではないかと思いました。
反対に、金融論のような仕事に近しいものは企業に入ってからでも学べる可能性が高いので、判断の基準として使われてこなかったのかなとも。

Lyra(りら)

今のかめたさんの話にもあったような、学歴でその人の優秀さを評価するような傾向に加えて、人手不足が深刻ではなかった時の採用基準として学歴で見た方が採用者側の負担が少ないという背景があったために、良い大学に入ればその企業の採用基準にも対応できて安定するという構造になっていたのではないかなと思いました。

私たちの拙い考えを優しく受け止めてくださった
藤田先生

例えば、東京大学で文学を勉強してきたけど金融論については全然知らないような若者を銀行で雇ってしまうと、銀行に入ってから専門的な知識を教える必要があり、銀行側に教育コストがかかります。
いい大学が採用基準だった場合に、なぜわざわざ教育コストがかかるようなことをするのでしょう。初めから金融論を知ってる人を雇えば、教育コストはかからないじゃないですか。なんで東大や京大のような有名大学にこだわるんだろう。教育コストをかけてまで、なんで有名大出身の人を欲しがるのでしょう。

Lyra(りら)

なんでなのでしょう? 
わからないです……

藤田先生

実はこの教育コストと有名大学の関係が、本来手段であるはずの大学合格が目的になっている大きな理由なんですよ。
先ほども話してくださいましたが、日本企業の非常に大きな特徴は、終身雇用です。
その終身雇用を支えるメカニズムの一つに、配置転換と企業内教育というのがあります。

藤田先生

いわゆる大企業では、ある職種に人を雇ったらそこで必要な専門知識は雇ってから教育コストをかけて授けます。そしてある一定期間がたつと、配置転換をして違う部署や支店に置く。またそこで教育コストをかけて社員を育てる。また一定期間経ったら、また違う部署や支店に異動させて教育してという風にして、多職種を経験しながら幅広い知識を蓄積していくオールマイティプレイヤーを育成するのが日本の大企業の特徴なんです。
しかし、部署によっては理系的な企業内教育をしなきゃいけないところもあるし、地理的文化的に地域の特性を深く理解するための企業内教育をしなきゃいけないところもある。企業内教育の種類というのは部署によってバラバラなんです。

かめた

なるほど。企業内教育においても幅広い知が形成されるようになっていたんですね。

藤田先生

このような背景があって、地理やらせても物理やらせても数学やらせても世界史やらせても、何をやらせても出来ちゃう若者が日本企業に必要とされてきたんです。彼らは、企業内教育のどんなものを渡しても恐らく吸収してくれると思います。企業にとっては教育コストを最低限に抑えて効率よく企業内教育ができるわけです。

藤田先生

そんな風に、企業内教育という制度がある中で、教育コストを最低限に抑えたい企業は、何をやらせても吸収してくれる人材を欲しがっていたわけです。そのような中で、何をやらせても吸収してくれる人材であることの証となったものが、「有名大学に合格すること」だったんです。企業は受験時の学力を採用の時に非常に重要視していて、大学で4年間学んできたことは関係なかったんです。
高度経済成長期からバブル経済の崩壊までは確からしく、その仕組みが幸せを保障してきた。だから皆有名大学に「合格」することを望んでいた状況でした。

大学受験合格が中等教育のゴールとなってきた理由を説明してくださる先生
藤田先生

しかし、今はそういった日本型雇用の仕組みが揺らいできている。
だから今の時代で大学受験合格をゴールとして捉えてしまうと、それは目的と手段の取り違えになります。

藤田先生

そのような手段と目的の逆転が起こっていることが認知されていない理由は、先程のような高度経済成長期における教育を受けてきたおじいさんおばあさん世代や、その世代に育てられたお父さんお母さん世代の影響です。
それらの世代は「いいいい大学や高校に入ること」を目標に教育されてきた世代なので、その価値を自分の子育てや教育で再生産しているケースが多いです。社会は確実に変化しているのですが、人々の捉え方は中々変わっていないわけです。
そこを皆さんたち自ら変えていかないと、古い社会価値に後を囚われてしまうので、幅広い観点から自分のキャリアを自分でデザインしていくことが非常に重要になってくると思います。

Lyra(りら)

大学受験がゴールとされてきたのは、それが日本型雇用をしている企業が必要としてきた「何をやらせても吸収できる人材」であることの証明であったからで、そんな日本型雇用の仕組みが幸せを保証してきたからだったのですね。衝撃的です……

自分のキャリアを自分でデザインするとは具体的にどういうことか

藤田先生

大学生の就職したい企業ランキングというのを見てみると、その年に新サービスを作ったり成果をあげたりして注目された企業が翌年の人気企業になるという傾向があって、ものすごく近視眼的なんですね。今業績が高い企業、今給与が安定してる企業に勤めたいとみんな思うのですが、それって短期間しか続かないので、いい選択とは言えないわけです。そうやって短期的な視野で選んでしまうと、いい人生を歩めるとは言い難いです。

そうではなく、自分はどういうふうに社会貢献したいのかな、自分の持っている強みはどのようなもので、その強みはどういう企業に入ったら一番発揮しやすいのかな、その企業の雇用のあり方はどのようになっているのかなと、社会への眼差しと自分の特性を軸にした広い視野で考えていく必要があります。

藤田先生

ですから、中高生大学生のうちにそのような社会の変容に対応できるだけの広い視野を身につけておくことは、すごく大切になってきます。
その広い視野を持つために大切なのが、知のベースなのです。知のベースが広い人は、メタ認知をする時に視野を広く捉えられる。反対に、知のベースが広くない人ってどうしても短期的になるし、視野が狭くなってしまいます。ですから、進路選択においては知のベースをきちんと持っていることがとても重要です。

知のベースの大切さがひしひしと伝わってきた
Lyra(りら)

知のベースの話を先ほどの自分に例えて言うと、「教育においては手段と目的が逆転してるよね。」「じゃあ、何で今の教育になったの?」「なんで今の教育は手段と目的が逆転してるの?」といった具合で、一つの問いに対する要素を分解してメタ認知するときに、その要素についての知識がないとその考えが広がっていかない。だからより考えを広げるために知のベースが必要だ、ということですね。

藤田先生

その通りです。そのような知のベースを構築するときには、原動力として探究心が必要になると思います。しかし、探究心だけだとにっちもさっちもいかなくて、その探究心の対象になる知がないと探究心の無駄遣いになってしまう。
探究心の無駄遣いが起こると、なぜかなと考えるだけで、思考がぐるぐる同じとこだけを回ってしまうんですが、知があると広がるじゃないですか。ですので探究心と探求対象となる知は、知のベースの構築においてすごく大切です。

藤田先生

しかも、探究心と探求対象となる知があれば、知のベースを構築することはとても容易な時代になっています。いざ知ろうと思ったら、指先一つでいろんな情報をどんどん集められる。
もちろん、口から出任せみたいなことをさも正しいかのように言っているようなサイトもあるし、本当に信頼できるサイトもあるわけなので、情報リテラシーは必須になってくるわけですが。
そのリテラシーがきちんとあれば、皆さんは指先1本で情報を集められるので、知のベースの構築と知の収集はすごくしやすい環境にあると思います。

かめた

大学受験において手段と目的が逆転しているような現象について、自分の頭の中で考えて答えを出してしまっていたのですが、今の藤田先生のお話を聞いて、日本の企業の雇用形態のあり方のような、現象に関連する知識を身につけることの大切さを実感しました。

藤田先生

ありがとうございます。素晴らしいことですね。よくよく考えてみると、実はこういうことって高校の現代社会や政治経済でやってるんですよね。しかし、それこそ手段と目的の逆転で、テストでやるから勉強するけど、テストが終わると忘れていく。自分との関係性の中できちんと理解していかないと、定着しないんですよね。
高校の勉強って結構重要なことをやっています。例えば、男女共同参画社会や、ジェンダー問題など。
現状の社会課題に関しても高校の授業でちゃんと扱ってるんです。家庭科でも、社会でも、理科でも。ただ、やっぱりそれはそれ、これはこれって切り分けてしまう傾向があるので、おふたりのように社会課題に目を開いている人でさえ、高校の勉強を社会と結びつけず「これはこれ!」と別の方に追いやってしまう。

かめた

社会について知っていくためには、社会について知ることのできる基礎科目の学習もすごく重要になってくるということですかね。

藤田先生

そうですね。僕自身は高校の頃見向きもしなかったですけど、今の高校生はどういう教科書を使っているのか、副教材はどんなふうに使っているのかを調べると、ものすごくいい情報がいっぱい載っています。過去の自分も同じようなものをきっと使っていたんだろうと思いますが、当時は面白いの「お」の字も感じなかったです。今思えば、勿体無いことをしたなと感じています。

社会と勉強の接点って?

かめた

高校生までの学びは、幅広い知の形成が目的だとおっしゃっていましたが、大学では学群や学類のように、分野毎に分けられていて、それを自分で選択して学んでいく形式ですよね。そのような大学での学びというのは、キャリア教育においてどのような役割を果たしていると思いますか。

藤田先生

まず、高校での学びは国が決めた基準に基づいて、学校側が提供しますよね。それは、幅広い知識を得るというのと同時に、はっとする瞬間を見つける機会でもある。要は、自分の興味関心の発見ができるんですよね。だから、幅広い分野の学習を経験とすれば、社会経験と同じで、学習経験を積むことによって自分の興味関心に気づく可能性が広がります。だからこそ、高校まではある一定の幅広い学習が絶対必要です。その中ではっとする瞬間、面白いなと思う瞬間が大学で学ぶことの選択に繋がります。​​

藤田先生

一方で大学は、自分の興味関心に基づいた対象について集中して学ぶわけですから、そこが違いますね。大学での学びは与えられるものというよりも、自分で求めていくものなんです。大学設置基準という法令では、大学の1単位の授業は45時間の学修を必要とするものと定められています。45時間の学修を必要とする分量を持つものに、1単位というのを与えます。
ただ、このうち「講義」として区分される授業については、大多数の大学では15時間分しか充てていません。
あと30時間は何かというと、予習復習といった自主自習や、それに関する主体的な探求です。大学の学習というのは、自分で探求していくことを中心にしていて、他人から教えてもらうのは全体の3分の1しかないんですよ。自分で課題を見つけて、自分で学ぶ。社会での活動もそういうものですよね。自分で感じた社会課題や企業の中の課題を、自分のチームで何ができるかを見つけていって、部署や自分で課題を設定して、みんなで頑張っていくわけでしょう。そのような、自らの学習課題を設定して、自分で学んでいく学習が大学の学習です。高校でもそのような時間はありますが、大学は何しろ法律で決まってますからね。

高校での学習と大学での学習の違いをお話ししてくださる先生
かめた

では、高校までの学習で得た自分の中のはっとするものを起点として、キャリアを形成することをゴールに据えると、大学というのはその橋渡しの役割を担うということでしょうか。

藤田先生

そうですね。大学では、その学問分野に限らず課題を設定したり、追求したりする方策を学びます。それは文学でも法律学でも、どんな学問であっても自分で課題を設定して探求していく。その過程は、大学を卒業して社会に出てからも有効なことです。

高校での学びと社会の繋がり

かめた

政治経済や現代社会といった科目だと自分との関わりがすごく想像しやすいのですが、物理や数学は、自分の暮らしている社会との関わりが薄いと感じます。自分の暮らしとの関わりが薄いと感じる科目ではっとする場合や、そのときのキャリアの具体例として考えられるものは何だと思いますか。

藤田先生

いっぱいあると思うんですよね。大学や大学院で数学をやる場合は数学を純粋な学問として捉えるのだと思うのですが、高校までの数学は実社会と接点があります。
コロナウイルスのパンデミックと指数関数の関わりを例に説明すると、
患者の増加の様子を「これは指数関数っぽいな」とか、「今これだけ増えてるってことは、1ヶ月後にはとんでもないことになるだろう」と捉えて行動できる場合と、指数関数の視点を持たず、全く予測できない場合では、全然社会の見え方が違う。

藤田先生

また、冷房を例に挙げると、その電気エネルギーは触媒を通して熱エネルギーに変換されているわけですから、物理のお世話になりっぱなしですよね。自然科学の上に私達が乗っかって生きていることに対して、知らなくても生きていけるけど、知っていたらより良く生きられるのが自然科学です。そう考えると、やっぱり社会との接点はありますよね。今、数学や物理と社会の接点が見えにくいと言われましたが、数学や物理に興味・関心がある子たちにはそれが見えまくってるわけですね。

Lyra(りら)

今のお話を受け質問があるのですが、その教科が社会とどのように繋がっているかを、学校での学びの中で見つけていくにはどうすれば良いのか、そして教育者側がそれを見つけさせるにはどうすればいいのかをお聞きしたいです。

藤田先生

見つけるための一つの方法として、その教科の先生に色々聞いてみることが挙げられます。
例えば物理の先生がいたとすると、その先生は物理が好きなわけじゃないですか。1年間物理を生徒に教えることを毎年繰り返しているんです。物理に関心を持てない人が多くいる中でも、その先生はそれを好きでやってるんですよ。先生にとっての面白さがそこにあるわけです。ただ、授業中は学習指導要領もあるし、教科書もあるし。やらなきゃいけないことが山積みなので、なぜ面白いかを話してる暇があまりないんですよね。だから、先生に直接聞くのが一番手っ取り早いと思います。例えば「どういう背景があって先生は物理の先生になったんですか。」とか「僕にとって物理のこれはつまんないんですけど、先生にとってはどう面白く見えるんですか。」のように聞いてみたらいいと思います。そういうコミュニケーションはすごく大切な気がします。物理的に遠いんだったら、Zoomなどで話せば良いと思いますよ。

かめた

それでは、興味がないと思ったとしてもまずは視野を広げてみて、それに対して向き合うことが大切なんですね。

藤田先生

はい。 先生に聞いてみたら、「こんなすごいものが世の中にあったんだ」ということに偶然気付くかもしれないじゃないですか。そういう出会いは自分で引き寄せることができます。例えば、先生とZOOMでお話をする機会を設けるとか。そのように何かのアクションを起こすことによって、今まで気づきもしなかった世界に足を踏み入れる可能性が出てきます。

我々の質問にも丁寧に答えてくださった
かめた

教科の学習や経験を通しての気づきが、キャリアを考える上で重要になってくるのですね。

藤田先生

そうですね。学習ポートフォリオのようなものがみなさんの手元にあるとするならば、それは自分の気づきや成長を把握するのにすごく重要だと思います。例えば、小学校の頃はスポーツのことしか書いてないけど、いつの間にか社会科の方に移ってきて、どうも経済的なことをいっぱい書いている。このように、その人がどんな風に成長し、発展してきたのかがわかります。そういう、自分の興味の移り変わりみたいなものが高校3年間だけでもあると、自分のその成長の過程や転換の過程や、気付かないけどずっと言い続けていることに気づけます。書き留めないと、人間は忘れてしまいますからね。

かめた

では、振り返りからキャリアを考える上では、自分がはっとした瞬間が重要で、その上ではっとした瞬間を分解して、その過程を記録して、長期的に見ることによって振り返ることが大事なんですね。

藤田先生

はい。その振り返りの仕方も大事です。例えばさっきの例で言うと、小学校の子が書いていたのは身体的に体を動かす快感みたいなものになります。ただ、中学校では社会的な視野を持つことによって社会課題が見えてきて、経済に関心を向けるようになったんだなっていう、自分の視野の広さの成長を同時に捉えられると良いですね。

かめた

それでは、振り返りからキャリアを考える上では、幅広い知が存在していれば振り返りの質も上がるんですか。

藤田先生

そうですね。物凄くそうです。

N/S高生のキャリア形成に当てはめて

Lyra(りら)

N/S高では、様々な起業と連携したワークショップや、課題解決型プログラムの起業部や投資部など、社会を学べる直接体験がたくさんあります。その前提を踏まえた上で質問したいのですが、そういった具体的な体験を自分のキャリアと結びつけていくためにはどのようなことが重要になるとお考えでしょうか。

藤田先生

例えば、環境問題に熱心に取り組んでいる企業で環境にやさしい商品づくりを体験してきたとしましょう。それを、社会と自分の枠組みからメタ認知することが重要かなと思います。社会の枠組みにおいては、今日やったことはどの社会領域でどのような役割を果たしているのだろうか。ということを。自分の枠組みにおいては、自分の興味と合致していたのかとか、はっとした瞬間はどこでなぜはっとしたのか。ということについて考えていくことが重要になってきます。

藤田先生

しかし、社会の観点と自分の観点から振り返ろうとすることは、その日のうちにはなかなかできないと思います。その日のうちの感情が中々冷めやらないと思うので。ですから、数日おいてそれを振り返ってみてほしいです。
経験したことを1日2日で、ああ楽しかったと言って過去のものにしないで、一度立ち止まって社会と自分の観点から経験を問い直していく作業は、非常に重要になると思います。

Lyra(りら)

先生はお話の中で、「プログラム内で配布される振り返りシートがもしあれば、それをどのように書くのかが非常に重要です。」ともお話されていた。
学園が提供している具体的な体験を自身のキャリアに繋げていくためには、プログラムに参加して終わりにするのではなく、一度立ち止まってそのプログラムは社会と自分の視点から見てどのような位置にあったのかをきちんと考えていく必要がある。それはどの学園生にとっても重要なことでしょう。
このことを胸に留めながら今後の実行委員活動に取り組みたいと強く思いました。

終わりに

取材の様子

藤田先生は終始、自分たちの質問に優しく、丁寧に向き合ってくださり、とても詳しく進路とキャリアについて教えてくださいました。

僕たちが進路やキャリアを選択していく上で重要なのは「学び」の意思。その学びの意思を持って、知のベースを築きあげ、広い視野で社会を捉えていくこと。そして自分の興味関心や強みを認識するためには経験と経験のメタ認知が重要。

そうやって知識と経験の両輪を踏み、自分と社会の二つを知った時、僕たちの進路はひらけてくるのではないかと感じました。

本記事が、みなさんの学びの一助になれば幸いです。

最後に、この度の貴重な取材機会を一緒に作ってくださった学園スタッフさんと、私たちと優しく、丁寧に向き合ってくださった藤田晃之先生に心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。

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